犬派のねこまんま 6である byねこじゃらし
犬派のねこまんま - 2012年05月22日 (火)
<子どもの暮らしは ハードボイルド>
小学校に入るまでには 二回引っ越しをしているはずだが、 全く記憶に無い。
白いワンピースを着て湖のほとりに母とたたずむ写真が、 その頃の物らしいので、
二歳くらいの頃だと思う。
温泉町だった。
お風呂で 溺れかけたらしく、
今でも 頭の中までぼんやり温かいのは、 きっと そのせいに違いない。
一年生になったのは、 東北のド山の中。
父の職場である工事現場のすぐ近くだった。
学校より 工事現場の方が近かったと思う 。
農家に 間借りをしていた。
田舎の暮らしは なかなかに エキサイティングなものであった。
芹を摘んだり、 栗拾いをしたり、 イナゴを採って 佃煮を作ったした。
イナゴを採ると言えば、 余所のうちの田んぼに入っても 叱られるどころか 感謝される。
膨らませた紙袋を持って、 ガンガン捕まえた。
出来上がった佃煮はほとんど父が食べ、吾輩は食べた覚えが無い。
山葡萄を採って、 葡萄酒を作っているおじさんのところに 持って行ったり、
ヨモギを摘んで、 餅つきをしている家に 持って行ったりすると、 お菓子がもらえた。
今考えると 狩猟採集生活 をしていた ということだ。
村には、 電球からお肉まで売ってる なんでも屋さんが 一軒しかなかったのだ。
納屋の天井に ミツバチ が大きな巣を作った時には、
みんなで巣を落として ハチミツ採集をすることになった。
まず、 できるだけたくさんの仲間を 集める。
蜂に刺される危険を 分散させる為だったのではなかろうか。 とにかく 片っ端から声をかける。
しかる後、 代表者が 長い棒でつついて巣を落とすと
「逃げろ!」 の声がかかり、
みんな一斉に 四方八方 散り散りに逃げて、身を伏せるのだ。
角を曲がったら、 地面に伏せて 動かない。
そうしていると、 蜂は 通り過ぎて行ってしまう。
じっとしているのが コツである。 逃げ遅れて 刺される子がいたりする。
サバイバルである。
蜂が全部いなくなってから、 蜂蜜と蜂の子が入っている巣ごと みんなで分配するのだ。
刺された子は 泣いて居なくなっているので、 取り分は増える。
「道草を食う」 という言葉があるが、 学校の帰り道には 本当に草を食べていた。
春先には スイバ とかスッカンポとか呼ばれている草の芯を、 ポキンと折って齧るのだが、
酸っぱくて 結構好きだった。
夏が近くなれば クマイチゴ の赤い実が楽しみである。
秋は柿やら栗やら山葡萄やらと盛りだくさんだが、 渋柿を齧って 酷い目に逢ったりもした。
渋柿には 気をつけよう。 葉の形で 見分けられると教わった。
生栗を食べたら、おできができちゃったりもした。
山葡萄は 口が曲がるほど 酸っぱい。
アケビは デンジャラスな場所に生っていたので、 採るのは ちょっとした冒険と言えた。
母親の知らないところで、 こんな大活躍 をしていたので、
お腹の弱い 病弱な子 と判断され、山羊の乳を 強制的に 飲まされる羽目になった。
草臭くて 辟易(へきえき)した。
世の中には、 山羊のチーズ というものがあるらしいが、 未だに 食べる勇気が無い。
山羊が 子どもを産むところを 偶然に見てしまった。
その場には 私しかいなかったが、 大家さんである農家の人を呼びに行く知恵もなく、
呆然として 見ていた記憶がある。
まず 足が見え、 だんだん出てきて、 しまいには ドスンと地面に落っこちた。
透明な どろどろしたものに包まれて濡れていたのを、母さん山羊が 舐めてきれいにすると、
よろよろと 自分で立ち上がってしまい、 びっくりした。
その頃になって、 やっと 飼い主である人間のお母さんが来て、
生まれた生まれたと騒ぎ始め、 我に返った。
考えてみると、
吾輩が 立会出産をしたあの子山羊とは、 その後 乳姉妹 になったわけである。
5へ☆☆☆7へ


小学校に入るまでには 二回引っ越しをしているはずだが、 全く記憶に無い。
白いワンピースを着て湖のほとりに母とたたずむ写真が、 その頃の物らしいので、
二歳くらいの頃だと思う。
温泉町だった。
お風呂で 溺れかけたらしく、
今でも 頭の中までぼんやり温かいのは、 きっと そのせいに違いない。
一年生になったのは、 東北のド山の中。
父の職場である工事現場のすぐ近くだった。
学校より 工事現場の方が近かったと思う 。
農家に 間借りをしていた。
田舎の暮らしは なかなかに エキサイティングなものであった。
芹を摘んだり、 栗拾いをしたり、 イナゴを採って 佃煮を作ったした。
イナゴを採ると言えば、 余所のうちの田んぼに入っても 叱られるどころか 感謝される。
膨らませた紙袋を持って、 ガンガン捕まえた。
出来上がった佃煮はほとんど父が食べ、吾輩は食べた覚えが無い。
山葡萄を採って、 葡萄酒を作っているおじさんのところに 持って行ったり、
ヨモギを摘んで、 餅つきをしている家に 持って行ったりすると、 お菓子がもらえた。
今考えると 狩猟採集生活 をしていた ということだ。
村には、 電球からお肉まで売ってる なんでも屋さんが 一軒しかなかったのだ。
納屋の天井に ミツバチ が大きな巣を作った時には、
みんなで巣を落として ハチミツ採集をすることになった。
まず、 できるだけたくさんの仲間を 集める。
蜂に刺される危険を 分散させる為だったのではなかろうか。 とにかく 片っ端から声をかける。
しかる後、 代表者が 長い棒でつついて巣を落とすと
「逃げろ!」 の声がかかり、
みんな一斉に 四方八方 散り散りに逃げて、身を伏せるのだ。
角を曲がったら、 地面に伏せて 動かない。
そうしていると、 蜂は 通り過ぎて行ってしまう。
じっとしているのが コツである。 逃げ遅れて 刺される子がいたりする。
サバイバルである。
蜂が全部いなくなってから、 蜂蜜と蜂の子が入っている巣ごと みんなで分配するのだ。
刺された子は 泣いて居なくなっているので、 取り分は増える。
「道草を食う」 という言葉があるが、 学校の帰り道には 本当に草を食べていた。
春先には スイバ とかスッカンポとか呼ばれている草の芯を、 ポキンと折って齧るのだが、
酸っぱくて 結構好きだった。
夏が近くなれば クマイチゴ の赤い実が楽しみである。
秋は柿やら栗やら山葡萄やらと盛りだくさんだが、 渋柿を齧って 酷い目に逢ったりもした。
渋柿には 気をつけよう。 葉の形で 見分けられると教わった。
生栗を食べたら、おできができちゃったりもした。
山葡萄は 口が曲がるほど 酸っぱい。
アケビは デンジャラスな場所に生っていたので、 採るのは ちょっとした冒険と言えた。
母親の知らないところで、 こんな大活躍 をしていたので、
お腹の弱い 病弱な子 と判断され、山羊の乳を 強制的に 飲まされる羽目になった。
草臭くて 辟易(へきえき)した。
世の中には、 山羊のチーズ というものがあるらしいが、 未だに 食べる勇気が無い。
山羊が 子どもを産むところを 偶然に見てしまった。
その場には 私しかいなかったが、 大家さんである農家の人を呼びに行く知恵もなく、
呆然として 見ていた記憶がある。
まず 足が見え、 だんだん出てきて、 しまいには ドスンと地面に落っこちた。
透明な どろどろしたものに包まれて濡れていたのを、母さん山羊が 舐めてきれいにすると、
よろよろと 自分で立ち上がってしまい、 びっくりした。
その頃になって、 やっと 飼い主である人間のお母さんが来て、
生まれた生まれたと騒ぎ始め、 我に返った。
考えてみると、
吾輩が 立会出産をしたあの子山羊とは、 その後 乳姉妹 になったわけである。
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