香美位山 六 (完)
「……」
戸惑いの沈黙は一瞬。
無遠慮な動きが、水と飯を奪い取った。
「礼だ。 おかげで 私が為すべきことが見えた。 礼を言おう」
水を飲み、 握り飯に齧り付く闇に、 晴れやかな感謝を告げた。
「近くに 土地神様はいないらしい。
私の願いは 届かぬらしい。
だから、 私が生まれ変わって土地神になり、 この地を護ることにする」
「おめでたい事だ。 姫さんは 何故ここに居る。
何故光を奪われ、 闇の中に閉じ込められて、 飢えを待つ事になっている。
閉じ込めた奴らがいるからだ。 そんな者たちを 何故護る」
「ふふふふ、 私は、 神になろうとしているのだ。
神が そんな細かいことを気にするものか。 丸ごと護る」
「バカヤロウ、 とんだお人よしだ。
おかげで オレは力を取り戻した。 何とかして ここから出してやろう。
オレは 姫さんが気に入ったらしい」
乱暴な言葉遣いとは裏腹な、 せつなげな気配がはみ出す。
人にあらぬものが、 人に恋した。
「……姫さんを 助けたい」
「ならば、 もう災いをなすことを止めよ。 私との約束だ。 よいな。
おまえに名をやろう。 灯想華(ひそか)、 良い名前であろう?
細かいことは 気にするな。
おまえは 穏やかな風になれ。 この世を潤す 優しい雨になれ。
私は おまえを護ろう」
音が消えた。
葉ずれの音、
川のせせらぎ、
生き物たちが立てる かすかな物音、
聞こえていても 誰も気にしない日常の音が いっせいに消えた。
ありえないような静寂が あたりを支配した。
次の瞬間、
轟(ごう)と 地鳴りが押し寄せた。
ずうーん。 地の底から響く揺らぎに乗って、 香美位山が揺れた。
北面の山肌が 次々と音をなしてして 崩れ、
やがて、 えぐり取られた山肌から、 隠れていた洞穴が ぽっかりと口を開いた。
そこに現れたのは、 世にも美しい若者の姿を得た 闇だったもの。
彼は 知っていた。
振り向いても、 祈姫が もうそこには居ない事を。
瓦礫(がれき)から覗いた薄衣(うすぎぬ)を引っ張り出せば、
姫が被っていた 被衣(かづき)である。
美しい若者に姿を変えた灯想華は、 被衣をつかんだ両手を 頭上に高くかざした。
折り良く吹いてきた風に乗り、 空に舞い上がる。
帯には、 三本の竹筒が下がり、
風が向きを変える度ごとに、 カラン カラン と寂しげな音を立てた。
竜牙(りゅうげ)山地に囲まれた 香美位山の麓(ふもと)にたたずむ 小さな郷では、
いつの頃からか言い伝えられてきた まじないがある。
軒先に 三本の竹筒を下げ、 風が音を鳴らせば、 悪気が去るという。
了
戻る★

※念のためにちょこっと説明。
【被衣(かづき)】について、 「くれないの影」にも出てきましたが、
牛若丸が五条の橋の上で、弁慶と出会う場面に出てくる あれ です。
牛若丸が頭に被っている 着物状の物の事です。
戸惑いの沈黙は一瞬。
無遠慮な動きが、水と飯を奪い取った。
「礼だ。 おかげで 私が為すべきことが見えた。 礼を言おう」
水を飲み、 握り飯に齧り付く闇に、 晴れやかな感謝を告げた。
「近くに 土地神様はいないらしい。
私の願いは 届かぬらしい。
だから、 私が生まれ変わって土地神になり、 この地を護ることにする」
「おめでたい事だ。 姫さんは 何故ここに居る。
何故光を奪われ、 闇の中に閉じ込められて、 飢えを待つ事になっている。
閉じ込めた奴らがいるからだ。 そんな者たちを 何故護る」
「ふふふふ、 私は、 神になろうとしているのだ。
神が そんな細かいことを気にするものか。 丸ごと護る」
「バカヤロウ、 とんだお人よしだ。
おかげで オレは力を取り戻した。 何とかして ここから出してやろう。
オレは 姫さんが気に入ったらしい」
乱暴な言葉遣いとは裏腹な、 せつなげな気配がはみ出す。
人にあらぬものが、 人に恋した。
「……姫さんを 助けたい」
「ならば、 もう災いをなすことを止めよ。 私との約束だ。 よいな。
おまえに名をやろう。 灯想華(ひそか)、 良い名前であろう?
細かいことは 気にするな。
おまえは 穏やかな風になれ。 この世を潤す 優しい雨になれ。
私は おまえを護ろう」
音が消えた。
葉ずれの音、
川のせせらぎ、
生き物たちが立てる かすかな物音、
聞こえていても 誰も気にしない日常の音が いっせいに消えた。
ありえないような静寂が あたりを支配した。
次の瞬間、
轟(ごう)と 地鳴りが押し寄せた。
ずうーん。 地の底から響く揺らぎに乗って、 香美位山が揺れた。
北面の山肌が 次々と音をなしてして 崩れ、
やがて、 えぐり取られた山肌から、 隠れていた洞穴が ぽっかりと口を開いた。
そこに現れたのは、 世にも美しい若者の姿を得た 闇だったもの。
彼は 知っていた。
振り向いても、 祈姫が もうそこには居ない事を。
瓦礫(がれき)から覗いた薄衣(うすぎぬ)を引っ張り出せば、
姫が被っていた 被衣(かづき)である。
美しい若者に姿を変えた灯想華は、 被衣をつかんだ両手を 頭上に高くかざした。
折り良く吹いてきた風に乗り、 空に舞い上がる。
帯には、 三本の竹筒が下がり、
風が向きを変える度ごとに、 カラン カラン と寂しげな音を立てた。
竜牙(りゅうげ)山地に囲まれた 香美位山の麓(ふもと)にたたずむ 小さな郷では、
いつの頃からか言い伝えられてきた まじないがある。
軒先に 三本の竹筒を下げ、 風が音を鳴らせば、 悪気が去るという。
了
戻る★


【被衣(かづき)】について、 「くれないの影」にも出てきましたが、
牛若丸が五条の橋の上で、弁慶と出会う場面に出てくる あれ です。
牛若丸が頭に被っている 着物状の物の事です。