格差はいけませんか
あれこれ放談 - 2021年09月20日 (月)
あいかわらず「多様性」と「格差」という言葉をよく耳にする。
多様性を増やして、格差をなくしたいと考える人が多いらしい。
「格差」という時、ほとんどが経済格差の事らしい。
たまに教育格差が問題になるが、
教育格差は経済格差に連動しているといわれるようになって、
一緒くたにされるようになった気がする。
格差というからには、格が違うのだろう。
ちょっとやそっとの差ではないはずだ。
どかーんと大きな差がある。そういうことだろう。
そこで言いたい。
格差があってはいけませんか。
町内運動会で毎年大活躍する人気者がいるとする。
かけっこが得意で速い。
記録を数字にして世界記録と比べれば、しょぼい。
比べてはいけないのだ。
オリンピックと町内の運動会を同列に比較するべきではない。
メダリストと町内の人気者は、どちらもヒーローで良いじゃないか。
そこには格差があってしかるべきだ。
ボクシングには、体重別にたくさんの階級がある。
体重に差がありすぎると、試合で生死に関わる危険があるというのが、
一つの理由だ。
ヘビー級の選手とフライ級の選手が戦ったら、見てる方も怖い。
大型ダンプと自転車がぶつかったらどうなるか。
みんなが知っている。
柔道の無差別級の選手でさえ、ほとんど大きい。
そして、もう一つ理由がある。
階級別に分かれれば、試合数も多く組めるし、
階級別にチャンピオンが生まれる。
興行的にも美味しい。
そう、チャンピオンがたくさん居たって良いじゃないか。
アメリカには、当たるととんでもない額の当選金がでる宝くじがあるという。
突然、貧乏人が大金持ちになる。
そういう宝くじ長者のグループがあるらしい。
なぜなら、それまでの貧乏人仲間とも、元からの大金持ちとも仲間になれないから。
生活の格が違ってしまうのだろう。
いろいろと大変だろう事は想像できるから、良い方法だと思う。
個人が日常で対応できる「多様性」には限界がある。
アメリカでは日本より大変そうな気がする。
格差が明確な方が安心できる事もあるのだ。
東京に新宿中央公園という大きな公園がある。
作られてから半世紀がたった今は、様々な施設もでき、整備されているが、
できてしばらくした頃、ホームレスのたまり場になっていた時代がある。
ボランティアで炊き出しをしていた人たちが居た。
そんな中の一人の話である。
一口にホームレスといっても、実に様々な人が居た。
炊き出しの合間に話をすると、いろんな事情が垣間見えた。
有名大学の教授だった人や、良く知られた会社の創業者なんかも居たらしい。
そうしているうちに、公園から姿を消す人がいる。
ある時気がつくと、元大学教授は学問の世界に戻っていた。
元社長は、実業の世界に戻って活躍していた。
どちらも有名だったから気がついた。
むろん少数だろうが、他にもそんな人がいたかもしれない。
不運に見舞われたのか挫折を味わったのか知らない。
新宿公園のホームレスという止まり木で心を癒したのだろうか。
社会の格差が、時に心の安全弁になる事があるのかもしれない。
格差があっては、いけませんか。
人間社会に対流を起こし、流れを作っているのかもしれませんよ。
問題なのは、格差がある事ではなく、固定化する事なのでは。
日本は、昔からある程度流動的な社会でした。
ガチガチに固定化iしない事を祈りたいです。

