日本語の愛について
あれこれ放談 - 2019年05月19日 (日)
先月書いた記事「万葉集の最初の歌を好き勝手に考察した件」に、
万葉集の最初にある雄略天皇の長歌は、
建国宣言と民へのアピールだったんじゃないか、と好き勝手な考察を書きました。
大和国は、私がぜんぶ従えている。
豊かに 楽しげに この丘で若菜を積む子よ、
我が腕に抱かれよ。
そんな感じの建国宣言だったら、
国民へのラブコールみたいで、ちょっといいかもと思っちゃいました。
そこで、はたと思いました。
英語の Love と
日本語の 愛 は
同じようで微妙に違うよね。
元々日本語の愛は、<愛(め)でる>ともいうように、
強い者が弱い者に対して、
あるいは立場が上の者が下の者に対して使う言葉です。
弱い者や目下の者が、強者に使う事はありませんでした。
弱い者が強い者に生意気なことを言ったり、少々逆らったりしても、
「ういやつ(漢字で書くと、愛い奴)よのう」と愛(め)でたりします。
例えば、子が親に反抗したり、好き勝手をしても、
愛し続けるのと同じようなものです。
だから、弱者や子が成長して、完全に対抗できるようになれば、
関係が変わります。
愛とは違うものになります。
愛人といえば、日陰者に決まっています。
妻は山の神になりますから、対等以上の関係になります。
奥さんに「愛してる」と言えない人は、
なんとなく日本語の愛について、気がついている人なのかもしれません。
誰彼かまわず連発する人は、もちろん要注意です。
相手を獲物認定している可能性があります。
愛するには資格が要るのです。
強者であるという自信や誇り。
強者であろうとする日々の奮闘。
肉体的、社会的、あるいは精神的、
なんでもいいけど、何かが強くなければ、
愛を告げる資格は無いのです。
それが、日本語の愛です。
直江兼続が、兜に愛の字を付けていたのは有名です。
愛宕権現とか愛染明王の加護を求めたという説がありますが、
あれは、強者であるという意気込みを表したものではないでしょうか。
逆らってもいいけど、自分は強いぞ。
かかってくるなら覚悟しろ!
みたいな。

万葉集の最初にある雄略天皇の長歌は、
建国宣言と民へのアピールだったんじゃないか、と好き勝手な考察を書きました。
大和国は、私がぜんぶ従えている。
豊かに 楽しげに この丘で若菜を積む子よ、
我が腕に抱かれよ。
そんな感じの建国宣言だったら、
国民へのラブコールみたいで、ちょっといいかもと思っちゃいました。
そこで、はたと思いました。
英語の Love と
日本語の 愛 は
同じようで微妙に違うよね。
元々日本語の愛は、<愛(め)でる>ともいうように、
強い者が弱い者に対して、
あるいは立場が上の者が下の者に対して使う言葉です。
弱い者や目下の者が、強者に使う事はありませんでした。
弱い者が強い者に生意気なことを言ったり、少々逆らったりしても、
「ういやつ(漢字で書くと、愛い奴)よのう」と愛(め)でたりします。
例えば、子が親に反抗したり、好き勝手をしても、
愛し続けるのと同じようなものです。
だから、弱者や子が成長して、完全に対抗できるようになれば、
関係が変わります。
愛とは違うものになります。
愛人といえば、日陰者に決まっています。
妻は山の神になりますから、対等以上の関係になります。
奥さんに「愛してる」と言えない人は、
なんとなく日本語の愛について、気がついている人なのかもしれません。
誰彼かまわず連発する人は、もちろん要注意です。
相手を獲物認定している可能性があります。
愛するには資格が要るのです。
強者であるという自信や誇り。
強者であろうとする日々の奮闘。
肉体的、社会的、あるいは精神的、
なんでもいいけど、何かが強くなければ、
愛を告げる資格は無いのです。
それが、日本語の愛です。
直江兼続が、兜に愛の字を付けていたのは有名です。
愛宕権現とか愛染明王の加護を求めたという説がありますが、
あれは、強者であるという意気込みを表したものではないでしょうか。
逆らってもいいけど、自分は強いぞ。
かかってくるなら覚悟しろ!
みたいな。

