2012年08月のエントリー一覧
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くれないの影 第三章――13
「ええっ?」 伊織が先に驚いた。 疑問形で 驚きの声をあげる。 陽映は 口を開くことができなかった。 驚きはしても、 そういう感情を一笑に付すことはできない。「はしたない娘とお思いください。 でも……でも、 思い切ることができません。 ……は……る……あ・き・ら様。 きゃっ」 日鞠は、 袖で顔を覆って 動かなくなった。 返す言葉も見つからず、 視線を あちこちにさまよわせた陽映の目に、 不思議なものが映った。 縁...
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くれないの影 第三章――12
「やっと 晴れ間が見えてまいりましたね」 久しぶりに見えた 明るい空を眺めて、 伊織が嬉しそうに言った。「あまり 見物ができなかった」 陽映が 残念そうに答える。「婚礼のことは、 鳥座惣右衛門様と 達磨坂様が 万事ご相談なさるでしょうから、 その間に 白菊様と道行きと洒落込んだらいかがです」「まだ道がぬかるんでいるから大変だろう。 遠出は諦めよう」「そうですね。 では 屋形の中でイチャイチャしたらいいと思いま...
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くれないの影 第三章――11
一日が長いのか、 短いのか、 白菊は 土岐野さえ下がらせて 部屋に居た。 あと少し、 あと少しのはずだった。 何もかも うまくいくはずだった。 おのれ千種。 死んだ女に 歯噛みした。 夕暮れが迫ろうとしているのも知らず、 一人座って 炎に焼かれていた。 顔から肩、 腕、 手の甲に至るまでの左半分が、 ちりちりとした痛みをよみがえらせる。 かたわらで しきりに顔を洗っていた淡雪が、 ふと 動きを止めて 白菊を仰ぎ...
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くれないの影 第三章――10
堅香子(かたかこ)と日鞠(ひまり)が 連れ立ってやってきた。「波止女弾正(はとめだんじょう)の妻、 堅香子と申します。 これなるは 次女日鞠にございます」「鷹巣陽映です」「昨日は 日鞠が見苦しい姿をお目にかけたとか。 お詫びに参りました」 陽映は、 なんだ、 そんなことかと笑った。「これはご丁寧におそれ入る。 お気になさるほどのことではござらぬ」「こなたにお知らせいただき、 侍女を迎えにやることができま...
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くれないの影 第三章――9
着ている物から推し測れば、 下女や召使ではなさそうだ。 いずれ ひとかどの家の 息女だろう。 それならば、 主に叱られたとか、 仕事で失態を演じたとかいう簡単な理由で泣いているとは思えない。 陽映は 困った。 大いに 困った。 泣いている女人は すこぶる苦手だ。 どう対処すればよいのかが 全く分からない。 今後は それなりの技も 必要になってくるのだろうか。 それにしても 苦手だ。 陽映の気配に 娘も気づ...
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くれないの影 第三章――8
「お早いお着きにございますね」 土岐野の言葉を無視するように、 堅香子は 「大変でしたね」と 声をかけて入ってきた。 若い頃から 押しの強い男だった現波止女家当主が、 是非に と強く求めただけのことはある。 堅香子は 年を重ねた今も 充分に美しかった。 さらに 娘の頃には無かった妖艶さも備わって 見るものを圧倒する。 それに引き換え、 娘の日鞠は おとなしげに見えた。 母親の後ろにひっそりと控え、 うつむき加...
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くれないの影 第三章――7
陽映は、 それでも にっこりと微笑んだ。「初めてお会いしたのは 二年半ほど前でしたね。 鷹巣家の内々(うちうち)の祝い事に、 父君といらした あなたを目にしたときは、 兄上が羨ましかったものです。 本当に お可愛らしかった。 兄の許嫁(いいなずけ)だったあなたを 妻にできるとは、 あの時は 思いもしなかった。 父君のご不幸を喜ぶわけでは 到底ございませんが、 あなたと縁を結ぶことのできる私は 幸せ者です」 ...
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くれないの影 第三章――6
陽映から 到着の挨拶をしたい と申し入れがあった。 白菊が座る隣に、 さらに小さな几帳を立て、 『影』を忍ばせた。 白菊が座る 左後ろの位置だ。 土岐野や五葉の視線が左頬を掠(かす)めても不機嫌になる白菊が、 何故か 『影』を左側に置きたがった。 自然、 『影』は いつも赤黒い痣を見ることになる。 真意は測りかねた。 一族の主だった者たちも 続々と訪れるはずだ。 姿かたちを覚えよ と命じられた。 几帳の隙...
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くれないの影 第三章――5
もはや 当たり前のように『影』が座に着くと、 庭先に 家人が女と少年を伴って現れた。「新たに入れた 飯炊き女と下男、 お萩と 千兵衛 にございます」 女と少年が 地に手を着いて、 深々と頭を下げた。 御簾越しに見ても 遠くて顔などよく分からない。 どうせ 下男下女など、 どれもたいした違いはない。 見たことがあるような気がするのは、 単なる気のせいだ。 鹿の子は、 自分の発した言葉によって、 以前の雇い人た...
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くれないの影 第三章――4
牛車の轍の音が 遠ざかってゆく。 かき回された屋敷の雰囲気が、 ようやっと落ち着きを取り戻し始めた。 押しかけてきた日の翌日、 綺羅君から 歌を添えた文が届いたが、 無論、 白菊は けんもほろろに破って捨てた。 それでも 牛車はやって来た。 文の返事もくれない相手に しつこく通う都人など 聞いたことも無い。 流罪になるわけだと、 妙な納得の仕方をしてしまう領主屋敷の人々だった。 二度と奥には入れるな とい...
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くれないの影 第三章――3
助かった と思ったのもつかの間、 惣右衛門が 面倒な話を始めた。「鷹巣様から 文が届きました。 先代様の三回忌法要に、 陽映(はるあきら)様が御越しになられる由。 良い折でございますので、 お屋形様とのご婚儀の話をすすめたいと存じます。 よろしゅうございますね」 鹿の子は どう返事をしていいのか見当がつかない。 また 土岐野が助けに出た。「思わぬ闖入者で 屋敷内が混乱しています。 そのことについては 後...
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くれないの影 第三章――2
帝の弟宮――綺羅君は、 朗々とした声に歌を載せながら、 ずうずうしく 廊下から上がりこんできた。「心あてにー、 折らばや折らむー 初霜のー、 おきまどわせるー 白菊の花―」(当て推量で折ったなら、 折り取ることができるだろうか。 一面に白く降りた初霜にまぎれて、 何処に咲いているやら 見分けることもできぬ 白菊の花を) 盗作だ。 しかも 季節は 夏の昼下がり。 歌なんて ちんぷんかんぷん、 という鹿の子でさえ...
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くれないの影 第三章 煌めきの君、被虐の目覚め――1
(きらめきの きみ、 ひぎゃくの めざめ)「我が運命(さだめ)の乙女子(おとめめご)よ、 やっと会えたね」 目鼻立ちの美しさだけなら 紅王丸が凌(しの)ぐだろう。 しかし その身にまとった艶(あで)やかな華やかさは 鹿の子の目を釘付けにした。 年の頃は 二十二、三。 自信に満ちた瞳と あか抜けた様子には、 匂い立つような 男の色香が立ち昇っている。 鹿の子には、 なんとなく心当たりがあった...
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犬派のねこまんま 14である byねこじゃらし
<初めての夏休みに 起こった事> 吾輩が ピッカピカの一年生になったのは、 【6である】 に書いたように、 東北のド山の中であった。 元気に学校に通っていたある日、 担任の先生 が、 我が家にやって来たらしい。 伝聞なのは、 その頃 吾輩はおそらく、 草を食べていたか、 山の中でおやつを採集していたか、 その他のどこかで 活躍 していたのであろう。 家には居なかった。 担任は、 眼鏡をかけた、 若くてきれい...
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くれないの影 第二章――12
目配せだけで 見張り番に扉を開けさせ、 土蔵に入る。 薄闇に目が慣れるのを待って 立ち止まっていると、 窓に 寿々芽が来て止まった。 奥で 紅王丸が立ち上がる気配がする。 鹿の子は ゆったりと進んでいった。 それにつれて 紅王丸も、 一歩、 また一歩 と近づいてゆく。 格子の前で 鹿の子は正面からじっと見つめ、 瞬きもせずに 紅王丸が口を開くのを待った。「ああ、 本当に 姉上……に……似ている」 鹿の子は がっか...
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くれないの影 第二章――11
皆が退室して 二人になった。「御簾を」 土岐野は 声に従って、 御簾を下ろし、 愕然とした。 今の声は どちらの声だったのだろうか。 判然としない。 不安に駆られて、 白菊にしか見えない娘を見た。 こっそりと影を用意したものの、 こんな風に堂々と人前に出すとは思っていなかった。 ごまかし程度に使うだけだ と思っていた。 いずれ 惣右衛門をはじめ 一族の者には 打ち明けることになるだろうと。 似すぎている。 ...
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くれないの影 第二章――10
惣右衛門は 知らん顔を決め込んでいた。 隣国の領主 鷹巣(たかのす)義具(よしとも)の次男、 陽映(はるあきら)との縁談を 実行に移さなくてはならない時期に来ている。 いや 遅きに失したともいえる。 ことは 鳥座家の存亡にかかわっているのだ。 万が一 白菊姫に婿取りが出来ぬなら、 一族の者たちに図って、 分家から 次の当主を選ばなければならなかった。 山を下った南に 波止女(はとめ)という領主がいる。 強く請...
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くれないの影 第二章――9
十日目に 訪れる者があった。 国司の使いだという。 惣右衛門が出て、 国司の館に赴(おもむ)く旨を伝えても、 それには及ばぬという。 領主に直接頼みを伝えるよう 言いつけられてきたと譲らない。 国司に任じられても、 役名ばかりで 都に留まることの多い中、 次嶺経(つぎねふ)の国司は 受領(ずりょう)に自ら赴任してきた変わり者だ。 館は郷の南東に在り、 領主屋敷とは離れた場所に位置している。 政の用向きに関し...
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くれないの影 第二章――8
白菊姫の日常は 動きが少なく、 真似るのは難しかった。 鹿の子が通されていた部屋は、 謁見の間だったらしく、 御簾の後にある私室と 謁見の間だけが行動範囲だった。 白菊の部屋は さすがに広く、 障子を開ければ、 洒落た濡れ縁と広々とした庭もあり、 目隠しになる土塀がめぐらせてあったが、 白菊が庭に出ることはない。 その上、 土岐野は 多少とも意識して動いていたが、 白菊姫は 幼い頃から姫として躾けられ...
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くれないの影 第二章――7
その沈黙は 長かったのか、 短かったのか。 研ぎ澄まされた刃(やいば)のような 時の流れがあり、 答えが 出た。「よかろう」「姫様!」 土岐野が 悲鳴のような声をあげた。『お屋形様』ではなくなっている。「土岐野、 御簾を上げよ」 土岐野を無視して 暗い声が響いた。 なおも躊躇いを見せていた土岐野が、 鹿の子を睨みつけて 立ち上がった。 御簾を ゆっくりと巻き上げてゆく。 隅に転がった脇息が見え、 白菊の姿が...
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くれないの影 第二章――6
得意技を駆使して、 なんとか しとやかな 立ち居振る舞いを身に着けた鹿の子は、 土岐野に導かれて 白菊の部屋に連れて行かれた。 人払いがしてあったのか 誰もいない。 土岐野が平伏したので 鹿の子も真似た。「動いて見せよ」 御簾の内から 不機嫌そうな声が聞こえた。 土岐野に促されて、 部屋の中を歩く。 と、 突然 物が投げ捨てられたような乱暴な音がして、 御簾の裾から 白猫が飛び出し、 二人とも 思わず身を...
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くれないの影 第二章――5
「土岐野様、 お願いがあります。 じっくりと見せてください。 そのう、 立ったり 座ったり 歩いたり のお手本を」 土岐野が来た時、 切り出してみた。 土岐野は わずかに目を見張る。 鹿の子から 進んで申し出をしたのは 初めてのことだった。 考えるように 一度目を閉じる。「よかろう」 土岐野は、 ひなびた領主屋敷の侍女とは思えぬ優雅さで 所作(しょさ)を披露した。 鹿の子の様子が ぼんやりと頼りないものになる...
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くれないの影 第二章――4
「あのう、 男の方なのに 何故袿(うちぎ)を?」「ああ、 女人になりたくて。 女人変成(にょにんへんじょう)を願い、 毎日経を読んでいるのだが、 なかなか成れずにいる」 鹿の子も 聞いたことはあった。 変成とは、 徳の高い僧侶が 仏の力で 男を女に、 女を男に 変える術だという。 行われるのは、 ほとんどが男子変成だ。 しかし…………。「あれは、 母親の腹の中にいるうちに 願うのではなかったかしら。 生れ落ちてから...
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くれないの影 第二章――3
次第に目が慣れてきた鹿の子は 目を見張った。 はじめは 若い女に見えた。 薄暗がりの中でさえ 浮き立つほどに白い肌の その人の顔は 長い黒髪に縁取られ、 はっとするほどに 美しかった。 白地に 楓の葉を散らした模様の袿(うちぎ)を 肩から羽織っている。 楓葉の模様は、 明るいところで見たら さぞ鮮やかな緑色をしていることだろう。 右肩に近い一葉だけが ほんのりと紅葉して、 一部が 暗い赤に見えた。 立ち姿も...
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くれないの影 第二章――2
鴨居の上ならば 人の視線のはるかに上だ。 背伸びをしても見えない 良い隠し場所だと思っていたが、 鴉(からす)には通じなかった。 光り物を好む鴉がいる。 そんな鴉にとって、 磨き上げた真っ赤な珊瑚玉は 好物といえた。 鴉を追いかけて 急いで 庭に下りた。 盗られてしまったら、 鹿の子の物といえるものは 何一つ無くなってしまう。 飛んでいってしまったら どうしよう。 心は焦りながらも、 ゆっくりと慎重に近づ...
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くれないの影 第二章 お客様は紅王丸――1
翌日から、 土岐野が付きっ切りで 挙措動作(きょそどうさ)の訓練が 始まった。 動きに慣れないうちは と小袖に切り袴、 薄い袿(うちぎ)を 一枚着せられていたが、 鹿の子には それでも お姫様になった気分だった。「だらしない歩き方をしない! 背筋を伸ばしなさい」 何も考えられない鹿の子は 土岐野の言いなりだ。「新参者の兵でもあるまいに、 元気良く行進してどうする。 しとやかに歩くのだ」 しとやかが どういう...
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Spling Dull
「くれないの影」第一章が終わりました。 いや~、暑いのなんの。 唐突ですが、皆様お元気ですか。 オリンピックの応援、お疲れ様です。 暑さと寝不足に やられちゃってる方も いらっしゃることと思います。 私も、ここらで、一休みさせて頂き、 今日は、またもや ずうずうしく 自作の曲でお茶を濁したいと思います。 それでは 「Spling Dull」をお楽しみください。なんちって。 ただいま 夏の真っ盛り だという事は、...
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くれないの影 第一章――11
よろめいて くず折れそうになった腕を、 むんずとつかんで 引き寄せた者がいた。 見知らぬ男に思えたので、 鹿の子は 振りほどこうと暴れたが、 男は 強くつかんで放さない。 暴れる鹿の子をもてあまして 当て身で気絶させた。 すぐ先に 切り立った谷が 口を開けていた。 男は 千種を追っていた者たちの一人だった。「見つけたぞ」 一声仲間に声をかけ、 気を失っている鹿の子を かついだ。 鹿の子が目を覚ますと、 領主...
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くれないの影 第一章――10
方角さえ 全く分からない。 こんなことになると知っていたなら、 星の読み方を 習っておけばよかった。 そうすれば 星座の位置で 東西南北くらいは 分かったはずだ。 だが 今の鹿の子には、 星が途切れて 黒々とした輪郭が 山の稜線なのだ というところしか判断のしようが無い。 まずは 手探りで 屋敷が建つ高台を下り、 丈の高い植物の陰に 身を潜めた。 土の軟らかさから 畑だと知れる。 やがて 空の一角が わずかに明...
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くれないの影 第一章――9
「あのう……帰ります」 しかし、 五 葉は 見た目にたがわず 力持ちだった。 引きずられるようにして 強引に 湯殿に連れて行かれたかと思うと 着物をはぎ取られ、 頭のてっぺんから足の先まで 念入りに磨かれた。 強引ではあっても、 髪は丁寧に梳(す)かれ、 体は 糠袋で丹念にこすられて、 だんだん 気持ちが良くなってきた。 旅の間は 水で体を拭くか、 暖かい日に水浴びをするかで、 湯を浴びるのは 久しぶりだ。 腹を立...